2001年6月25日月曜日

青森県青森市にお住まいのラッキー福田さんからの相談。


 今、私には好きな人がいます。 その人とは同じ中学、同じクラスで毎日話をしたりしてましたが、 高校では違うクラスになり、会う機会がめっきり減りました。たまに会っても 軽く挨拶をするくらいです。 告白するべきなんでしょうか? これからどうすれば良いか、アドバイスをお願いします。


おこたえします。

  一般的な人生相談ならば定番中の定番といった相談内容ですね。ありがとうございます。しかしこんな相談事をこの「かみま問答」にしてしまったのはあなたの大きなミスとしか言いようがありません。
  他人事ならば野次馬根性まる出しで楽しみまくろう!というのがここの回答者の性格です。即答しましょう。

「行け行けゴーゴー、当たって砕けてしぶきをあげろ!!」

 だいたい、日本の人口が1億人。男女半々の割合で、隣のケンちゃん(0歳3ヶ月)からお向かいの徳蔵さん(82)に至るまであらゆる男性がライバ ルだと仮定して、あなたが彼女とつき合える確率は5000万分の1。まして、国際化と言われて久しい昨今、世界を相手にしたら30億分の1です。
  そう思ったら宝くじみたいなもんだけど、当たりっこないと知っていてもみんな宝くじを買っちゃうわけでしょう?そのぐらいダメもと気分でやっちまえ!
  それに、ケンちゃんだってあなたの本当のライバルになるまであと十数年程度かかるだろう。仮に彼女が徳蔵さんとつき合ったとしても何年もしないうちに再び 彼女はフリーになるだろう?!そして、あなたはすでに彼女とたまに挨拶を交わすほどの関係。…ということは、ケンちゃんや徳蔵さんよりもよっぽど有利では ないか。そう思ったら宝くじなんかよりはよっぽどマシなほうだ。

 しかし、そんなことを言われなくたって、本当の恋ならば告白せずにはいられないはず。それは何故か?

恋愛は「かさぶた」である  なのだ。

  子供の頃とか、転んですりむいたりすると「かさぶた」ができるでしょう。それで、薬つけて「いじるなよ」って大人から言われるんだけど、痛いようなかゆい ような、「かさぶた」はあなたの全身の中で最も気になる存在になってゆく…、で、最初は「ちょいちょい」って触るんだけど、だんだんエスカレートして、つ いにベリッってはがしちゃうんだよなぁ。それも一度や二度じゃなくって、もう分かってるくせに「また血が出ちゃったよ」ってな具合に。しかし、毎回かなら ずそうなるわけでもなくて、ごくたまに、すがすがしいほどにきれいにはがれることもあって、そんなときは妙にすっきりとした達成感が沸いたりもする。

 告白しようかどうか迷っているラッキー福田さんのいまの状況はちょうど「ちょいちょい」と触っているところなのでしょう。すってん転んでFall in love.そして出来てしまったあなたの「心のかさぶた」-この先、ベリッといっちゃうか、じっと放置して消えるのを待つか…。私からのアドバイスとして は上記のとおり「やっちゃえ、はがしちゃえ!」といったところ。おそらくこれを読んだ第三者の全員が同じ意見でしょう。

そして、ラッキー福田君。断言しよう。
君は「かさぶた」をはがさずにはいられない。

2001年6月19日火曜日

福岡県にお住まいのいちごサクラさんからの相談。


 以前から疑問に思っていたのですが、世の多くの男性は自分のことを 「俺」という人が多いと思います。 私の遠い記憶によると、小学校低学年の頃の男子は、 「僕」と言っている子のほうが圧倒的に多かったように思います。 いつ頃何をきっかけにして、「僕」から「俺」へと一人称が変化するの でしょうか。 また、どうして「俺」と言うようになるのでしょうか。


おこたえします。

 「僕」から「俺」への一人称の移り変わりについてですか。非常に興味深い問題です。まずは、統計学的見地から考察する必要があるでしょう。
  日本の標準的と思われる小学4年生からサンプリング調査を行ってみました。のび太・スネ夫・ジャイアン・出来杉、この中で「僕」というのが3人、「俺」を使っているのは1人でした。さらに、その1人が「ガキ大将」であることが明らかになっています。
  この調査の結果、日本の標準的と思われる小学4年生における一人称の使われ方の状況は「僕」が75%と圧倒的に多く、「俺」を使うのは一部のガキ大将に限られるということが判明しています。
  もう少し対象を上の年齢層に向けてみましょう。学校法人男塾の調査では95%以上の学生が「俺」を使っているようです。
  このように多くの男性において、少年期から青年期に至る過程のどこかで、「僕」から「俺」へとシフトする時期が訪れるということがいえると思います。しかも、そのタイミングは自分で決めなければならないのです。

 さて、少し見方を変えてみましょう。ここで、注目しなければならないのは、ある瞬間から、誰に対してでも「俺」を使うようになるのではなく、話を する相手に応じて一人称も変化するのだということです。友達に対しては「俺」と言っていても親や先生に対しては「僕」を使っているという場合もあります。
  「俺」や「僕」というのは、実は自分の中での自己のあり方を表しているのではなく、他人に対して自分をどう演出していくかということなのです。

 つまり、自分の話す相手に対して「僕」って言うんじゃ格好悪いなとか、恥ずかしいなと感じたときに、はじめて「俺」を使うようになるので しょう。また、「ぼくのおとうさんがね…」が「俺のオヤジがさぁ…」という具合に、同じような動機で変化していくのはなにも一人称だけに限ったことではな いんですね。
  また、このような変化が発生する時期というのも、なにも少年期から青年期に限るわけではなく、「ワンワン」じゃなくて「イヌ」っていえた方がかっこいいと か、いつまでも「ぶーぶー」とか「まんま」とか言っていたら恥ずかしいなと思って幼児語を卒業した経験など、おそらく「いちごサクラ」さんにもあったので はないでしょうか。
  老若男女問わず、心身の成長や環境の変化、話をする相手によって、言葉で自分をどう演出するかということが変化するケース、結構多いような気がします。

1997年10月29日水曜日

福島県郡山市にお住まいの吉成ミナ子さんからの相談。


 この前仙台の人に「福島は田舎じゃねーか!!」とバカにされてしまいました。どうすればいいでしょうか?ちなみに私の住んでいるところは、郡山と言う都会的な場所です。

おこたえします。

 まず、吉成さんの文章をもういちどよく読んでみましょう。
 文末には「福島は田舎ではない」という主張が感じられます。もしくは、「福島は田舎かもしれないが、少なくとも私の住んでいる郡山は田舎ではない」といいたいのかもしれません。
 いずれにしても、吉成さんは「福島は田舎じゃねーか!!」という仙台の人の言葉に不快感をもっているわけです。

 そもそも、都会と田舎をどう区別すればいいのでしょうか。「人口何万人以上が都会」とか、「地下鉄が走っていうのが都会」とか、はたまた都市ガスが通っているのが都市でLPガスの所はそうではないのかなど、考え始めるときりがないのでここではあまり深くは追求しません。
 しかし、仙台市は政令指定都市であるという点においては福島県内の各市とは、はっきりとしたちがいが存在するわけです。

 ここで、政令指定都市について、埼玉県浦和市のホームページに「政令指定都市へ向けて」と題してわかりやすい説明がありましたので引用してみましょう。


政令指定都市とは?

 「地方自治法」では、政令指定都市は、「政令で指定される人口50万人以上の市」と定められています。
 政令指定都市は、道府県の区域に包括される市ではありますが、一般の中小都市とは異なる取扱いがされています。
 政令指定都市制度とは、大都市特有の行政問題の解決の方策として考えられたものです。都市に人口や産業が集中すると、市で対処しなければならない行政需 要が増大し、広範多岐にわたる行政サービスが必要となります。一般の市と同じシステムでは対応しきれない面が現われてくることから、大都市に相応した権能 と財政力が付与されることによって、事務の効率性を高め、市民福祉の向上を図るための制度です。

 なるほど、政令指定都市ともなるとある程度の基準があるわけです。そして、浦和市は政令指定都市になることを目標としているわけですね。がんばって欲しいものです。

 さて、問題は「都会であること」が「田舎であること」よりも、はたしていいことなのかどうかです。人それぞれ、価値観の違いがあるのは当 然のことです。田舎から都会へ憧れ、移り住む人もいれば、逆に都会の喧噪から逃れて田舎へ来る人もいます。しかし、多数決的な意味でのスタンダードな意識 として、田舎よりは都会である方がよいように思われているように思います。事実、都会には他の地方からも人が集まってくるところなのですから。

 都会には人々が集まる魅力があります。人々の求めているものがあります。
 もっと、単純にいいましょう。都会には金が転がっています
 ある人はそれを掘り起こそうとして、またある人はすでに掘り出されたものを獲得しようとして都市に集まって来るのです。
 逆の例だってあります。「ゴールド・ラッシュ」-金さえあれば、何もない荒野にだって街はできてしまうのです。

 都市について考えるのはこのくらいにして、そろそろ吉成さんの今後のあり方について考えなければなりません。
 福島は吉成さんの住んでいるところなのですから、吉成さんが、「福島は田舎じゃねーか!!」という仙台の人の言葉に不快感を覚えたのは当然のこ とです。仮に、この仙台の人が「青森は田舎じゃねーか!!」と言ったとしても、「福島は田舎じゃねーか!!」ほどに不快には思わないことでしょう。この場 合は、青森県民である私の方が不機嫌になってしまうことでしょう。
 人は、自分の住む土地に対してかなりの思い入れがあるものです。単に都会であるか田舎であるかだけに限らず、街の環境やその他様々なことについて、よその土地と比べて優越感やコンプレックスを感じながらも、結局は「自分のところが一番」と思っているものです。
 決してそれは負け惜しみや諦めといったものではなく、だれもが自分のできる範囲で自分の住んでいる場所をよくしようと何らかの努力をしていると いうことへの誇りであると言えるでしょう。また、恋人にせよ家族にせよ、愛すべき人がいる場所は誰にとっても特別なものに違いありません。
 そのような特別な存在を他人に批判されたら腹が立つのは当然のことです。よそから来た人がTVなどでインタビューを受けるときに、よく「○○ 県に来てみて、印象は?」といった質問をされますが、その土地を悪くいう人はまず見たことがありません。いうまでもなく、瞬間的にその土地の住民全員を敵 にまわすことになりかねないからです。
 芸能人や政治家といった著名人はなおさらのことですが、プロ・アマを問わず、ご当地批判は殺人騒ぎに発展してもおかしくない程の御法度なのです。

 吉成さんがどうすべきか、これでわかったと思います。大いに怒るべきです。仙台の人にその怒りをぶつけるべきです。そうしなければ、福島全県民が吉成さんを決してゆるさないでしょう。これは、大げさでもなんでもなく、立派な民族意識の問題なのです。

 高校野球を思い浮かべて下さい。多くの人が、地元の高校、あるいは自分の出身校が県大会で健闘することを願っています。残念なことにその 高校が負けてしまったとしても、今度は甲子園での自分の県の代表を応援しています。たとえ、それが県大会で自分の応援していた高校のライバル校だったとし ても、自分の県の代表に「負けてしまえ」という人はそうはいないはずです。
 このあいだまで自分の応援するチームのライバルだったのに、今度はそのチームを応援したりして、見方によっては調子のいいようにも思えます。 しかし、自分の属している土地(街単位、県単位から国としての規模に至るまで)の代表を応援する気持ちは、極めて純粋なもののように思います。
 見たこともない全然知らない人でも、日本代表としてオリンピックかなにかに出場していたら、やっぱり応援してしまうじゃないですか。
 個人主義、薄情になったといわれて久しい日本人ですが、まだまだ捨てたものではありません。


1997年9月23日火曜日

北海道札幌市にお住まいの巌さんからの相談。


 きょう学食で醤油ラーメンを頼んだら、何故か僕のだけ5分も経ってから出てきました。このような悲劇を繰り返さないためには、どうしたらいいのでしょうか。

 また、やっと出来たとばかりにコショウをかけようとしたら、間違って一味とうがらしをかけてしまいました。どうしましょう。


おこたえします。

 醤油ラーメンを注文したら、望んでいたものが5分後に手に入った。これのどこが悲劇だというのでしょうか。醤油味のラーメンのかわりに「醤油顔(死語)のGメン」が出てきたというのであれば立派な悲劇といえるでしょうが、それにくらべれば極めて当たり前のこととしか思えません。
 巌さんがなぜこのことを「悲劇」と誤認しているのかといえば、文中にある「何故か僕のだけ」という表現が鍵を握っているようです。

 他の人の頼んだものはもっとはやく出てくる、自分より後から注文した人の方に先に品物が出てしまった。こういったことに不満を感じているようです が、巌さん自身と学食との間の取引においてはなにも問題はないのですから、巌さんの認識の中になんらかの間違いがあるといえるでしょう。
 巌さんの間違った認識とはこういうことです。

「学食において不当な差別を受けた」

 巌さんは自分に対する学食側の対応が差別的であったと感じている、つまり不公平感を抱いているわけです。
 差別とは故意に行われるものです。相手の外見や思想などの相違、または単なる好き嫌いに応じて対応を変化させることです。この場合は、学食側に ミスや過失があったことは予想されますが、巌さんを他の利用者と明確に区別し対応の仕方を変えたとは考えにくいので、差別とは言えません。

・地震が起きて、他の家は大丈夫なのに自分の家だけがなぜか停電になった。
 電力会社が自分の家に対して差別を行っていたのではないか。
・あの人にだけ宝くじが当たったのは不公平だ。

 このような例と照らし合わせてみれば、巌さんも自分の考えの誤りに気がつくことでしょう。

 次に、一味とうがらしの件ですが、コショウと書いてあるビンに一味が入っていたというのであれば、学食に責任を問うことができるでしょうが、自分の食べるものに自分で何かものを加えるわけですから、やはり自己の責任において行動すべきです。
 自分自身に責任を持った行動をするためには、その行動を起こす前にこれからすることを確認し、その後予想される結果を把握しておくことが重要です。
 ビンの中身を手のひらに取り出して、顔の前へ持っていき、鼻から思いきり吸い込んでみましょう。勢いよくくしゃみが出れば、それは間違いなくコ ショウのはず。また、一味とうがらしかどうか調べるには、指につけて目をこすってみるのもいいでしょう。とにかく、「これはコショウだ」という確信が持て るまで徹底的に検証する姿勢が大切です。


1997年2月25日火曜日

青森県弘前市にお住まいのいいだです~さんからの質問。


 よく、友達に、「お前は、地球人らしくない」といわれます。
 自分では、地球人らしくふるまっているつもりですが、どうも、みんな信じてくれません。
 そこで相談です。地球人らしさとは、いったいなんですか?

おこたえします。

 以前、宇宙人と名乗る方からの相談をお断りしたことがありますが、地球人なのに地球人らしくないという方であれば、喜んでおこたえいたしましょう。
 いいだです~さんは、どのような理由でまわりの人達から地球人らしくないと思われているのか、自覚がありますか?
 いいだです~さんの見た目は本物の地球人と遜色のないことでしょう。(本物の地球人なんですから当然ですよね。)・・・となれば、いいだです~さんはまわりの人達が理解できない面を持っているということではないでしょうか。

 鬼の正体は西洋人であったという説があります。昔、何らかの理由で日本へ流れ着いた西洋人が鬼のもとになったというのです。その大きな体格や訳の 分からない言葉を話している様子は当時の日本人にとって、常識の範囲をはるかに越えたものであったことでしょう。また、その「鬼」が洋酒を飲んでいたとし たらそれも日本人からみれば、見たこともないものであったことでしょう。「鬼は血(のような色のもの)を飲んでいた」という記述も残されているようです。
 また、漫画家のはらたいら氏は出演していたテレビ番組「クイズダービー」で宇宙人と呼ばれていました。その驚異の正答率はだれが見ても宇宙人というニックネームにふさわしいものでした。
 いいだです~さんには「鬼」のようなまわりに対する強烈な印象となるもの、あるいは、はらたいら氏のような超絶的な能力・特技があるのではないでしょうか。自分のことを自分でよく観察してみましょう。行動、言動、思考など、あらゆる角度から自己分析してみるのがよいでしょう。
 また、いいだです~さんのことを地球人らしくないという人達から、どこがどう地球人らしくないのか、はっきりと聞いてみるのもいいかもしれません。

1997年1月21日火曜日

青森県弘前市にお住まいのふみさんからの質問。


  こんにちは.前から疑問に思っていたことがあります.
 車を運転しているとよく「赤ちゃんが乗っています.」などとリアウィンドウに貼っている人がいますが,あれは私たちに何かの行動を促しているのですか?私はあれを見る度に「だからどうしろっていうんですか?」と質問したい衝動に駆られます.
 では,さようなら.

おこたえします。

 確かに、このような表示をしている車をよく見かけますね。
 そして、たいていは「乗っています」というだけで、直接何かを要求している様子はないようです。
 では、それをつけている人達は何を主張しているのでしょうか?

 これらの車に考えられる共通点をあげてみましょう。
 まず、表示されているもののほとんど全てがプラスチック製の既製品です。手作りであったり、紙にマジックで書いたものをセロテープで貼っているようなものは、まず見たことがありません。
 第2に、この表示は必ず車の後ろにとりつけられ、後続車に対して見えるようになっています。前側につけて先行車や対向車に見えるようになっている表示、これもまた見たことがありません。

 このことをふまえてもう少し考えてみましょう。
 このような表示をすることは交通安全の上で少なくとも必要不可欠なことではありません。そもそも、「子どもが乗っているから安全に目的地まで到着したい」というのは親としてのエゴであり、本来その本人が安全運転を心がければいいわけです。周囲の人に対して必要以上の注意を要求するのは筋違いですね。
 また本当に安全のために表示をするのであれば、先行車が急ブレーキをかけないようにとか、対向車が無理な右折などをしないようにしてもらうこと を考え、車の前側にも同様の表示をしなければなりません。実際、若葉マーク(初心者マーク)は車の前後両側につけることになっています。

 そういうことがなされていないところを見ると、結局、この表示は周囲の車に注意と安全運転をするよう呼びかけているものではない、ということになります。
 さらに、ほとんど全てが既製品を購入している点も目的意識を希薄にしているといえるでしょう。本当に安全が目的であれば、前述のように紙に「子どもが乗ってます」と書いて貼っておくだけで十分なはずです。どれもかわいい絵柄が描いてあったりする点を見ても、どうも安全のための表示ではなく、表示するための表示であるように見えてなりません。

 これらのことからいえるのは、彼らにこのような表示をさせているのは子ども自慢をしたがる親の本能であるということです。
 あの表示が主張していることは「うちにはかわいい子どもがいるんですよ」ということだったのです。そして、プラスチックのプレートに描かれたかわいい絵柄が、彼らの子どものかわいさを象徴しているのです。

 普通の人であれば、「うちのかわいい子どものために、まわりの車に安全運転をしてもらおう」なんて(よっぽど傲慢な人でない限り)まず考 えつかないでしょう。ところが、店頭でこのような商品を見ることによって、子ども自慢をしたがる親の本能が動かされ、つい買ってしまうのです。
 これも、不二家が始めたことで有名な「日本のバレンタイン・デーの習慣」と同じく、市場が市民の行動様式を支配した例のひとつといえるのではないでしょうか。

 さて、「私はそうではなく、本当に子どものためにつけているのだ」という方もいるかもしれません。そんなあなたは、当然実用本位なデザインの表示(本来、警告的なサインであるべき)を必要十分な位置すべてに取り付けているのでしょうね?

 というわけで、このような結論が出ましたので我々としては、彼らのことを「ああ、親バカなんだね」と暖かい気持ちで見守ってあげるのがよいでしょう。ふみさん、いいですか?
 私は、決して彼らが悪いとはいいません。私も将来子どもを持つことがあれば同じようなことをやってしまうかもしれません。なってみないと親の気持ちはわからないでしょうし・・・。

1996年12月12日木曜日

青森県平賀町にお住まいのくるくるたかしくんからの質問。


 マックのちょしかたがいまいち良ぐわがねんだいなー。 
んま、いいでしょ。
 ぼくは、1+5=4861059217だと、ずうーっと信じてました。でも、指で数えてみたら、6になります。どっちが正しいのか、教示願います。あと、来年の今日の天気も知りたいです。

ああ、気になる。

おこたえします。

 一度にたくさんの質問をいただきました。順番に答えることにしましょう。
 まず、マックの操作方法がわからないのですね。簡単なことです。
 カウンターに行って自分の食べたいものを大きな声で話すだけです。あとは、きちんとお金も払うようにしましょう。さらに高度なテクニックは「問答004・なりたたかのりさんの質問」で紹介していますのでそちらをご覧下さい。ドライブスルーの場合は、これよりちょっとだけ難しくなります。これは、またの機会に勉強することにしましょう。
 1+5は電卓で計算したところ、やはり6が正解のようです。そろばんでやってみたら、動いた球の数は2個でした。
 来年の今日の天気を知る方法ですが、これも簡単です。天気を知るには何と言っても「下駄占い」が一番です。たかが占いなどと馬鹿にすることなかれ、かつては占い師やシャーマンの予言することが「今後予測される現実」として一国の政治を左右していた時代もあったのですから。
 さて、下駄を1メートル転がした結果を明日の天気としましょう。すると、2メートル転がせば明後日の天気、10メートル先まで飛ばせば10日後の天気を知ることが出来ます。
 もうおわかりですね。365メートル先まで下駄を飛ばすことができれば、来年の今日の天気を知ることができるのです。ただし、その間にうるう年 の2月を含む場合には1メートル余計に飛ばすことを忘れないようにしましょう。365メートルも飛ばすだけの脚力が無い人は独自に「下駄飛ばしマシーン」 を開発しましょう。完成のあかつきには特許登録も忘れずに。

 この件におこたえしてから10カ月が過ぎましたが、先日、こんな新聞記事を見つけました。
気象審議会が3カ月予報への力学的手法導入を答申
 季節予報など中長期的な気候情報のあり方について検討していた気象審議会(会長・下鶴大輔東大名誉教授)は27日、3カ月予報や暖候期・寒候期予 報に力学的手法を導入するよう求める答申を小野俊行気象庁長官に提出した。また、産業界から要望のある1年先の予報の導入も検討すべきだと提言している。
 気象庁は現在、1カ月予報、3カ月予報、6カ月先までの寒暖を予測する暖候期・寒候期予報の3種類の季節予報を発表しているが、答申は「精度は利用者の期待する水準に達していない」とした。
 3カ月、暖候期・寒候期予報は、過去の事例から経験的に判断する統計的手法を用いているが、1カ月予報ではこの統計的手法と、大気の運動 を現す方程式をコンピューターで解いて時間的変化を予測する力学的手法を併用している。答申は3カ月や暖候期・寒候期予報も、2、3年以内に併用に切り替 え、精度向上を図るよう提言した。
 また、数値計算のもとになる気候モデルの開発を進め、5~10年先には1年予報を実施するよう検討を求めた。
 (10月27日朝日新聞より)
なんと、くるくるたかしくんの願いが天に通じたのか、気象庁も1年後予報に取り組んでいるではありませんか。
 力学的手法を応用・・・。・・・・。やはり下駄飛ばしでしょうか・・。